一隅におるのは私
今月より法語の掲示を始めました
— 真宗高田派 海松山 立法寺 (@ryuhoji903) 2021年2月5日
一回目は
「一隅にあって照らされる
川瀬和敬師」
隅っこにいる私こそを照らしてくれる阿弥陀さん
でも、自分が照らして貰っている事に気がつくのは、誰かが阿弥陀さんに照らされる姿を見られたから‥なんですよね
気がついたことすらお陰様#掲示板#なもったー pic.twitter.com/0RRdbIsZ1f
今月より、法語を掲示させていただく事となり、お世話になっておる書道教室の先生にご指導賜り、ポスターを作成させて頂きました
Twitter記事でほぼほぼ書いておるのですが、私今文章を書きながら気になったのが
「一隅」
という言葉です。
一隅=片隅
というふうに私は味あわさせて頂きました
片隅にいる私すらももらさず照らして下さる阿弥陀様
その光は全てを照らす‥と
でも、一隅と川瀬先生はゆうて下さりますが、何ともならんこのワタクシ‥
自分が片隅にいるなんてツユほどもおもっておりません‥
なんなら、世界の中心は私!周りのみんなが私の片隅にある人たちで、私こそがど真ん中にある人間や!と思って疑いすらしておらんのです‥
「片隅を照らしてくれる阿弥陀さん、なんて有難いんだろう」
もうね、どの口がいっとるの!?
とツッコまずにはおれんです
ようゆうたな、お前!ですわ‥
そんな勘違いした私を
お前の中では世界の中心はお前やとしても、他の人にとって世界はお前中心に回っておるわけじゃない
と強烈な右ストレートを下す阿弥陀さん‥
痛たたたた‥
そうだそうだ、私が世界の中心じゃなかったわ‥
そうやって気がついても、私が世界の中心だ!といつのまにか勘違いをする傲慢な私の心
この法語は、お前は片隅やぞ
と教えてくださっておる法語のようにも私は頂いております
あー、阿弥陀さん、痛いわー‥